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東京府は鉄道を尖兵とする文明開化が西へ進むと分かっていたからこそ、多摩地方を神奈川県から譲り受けて、都下を北多摩、南多摩、西多摩の三多摩に編成したのだ。
もし、当時の東京府が文明は東に進むと思っていたら、千葉県から葛飾地方を譲ってもらって、都下を北葛飾、南葛飾、東葛飾の三葛飾に編成しただろう。
もし文明は北に進むと思ったら、埼玉県から秩父地方を譲ってもらって、都下を北秩父、西秩父、東秩父の三秩父に編成したはずだ。
だから、東京がどんどん西に進んだのはたまたま区が東京都の東端にあったからだというのは、まったくの本末転倒だ。
ただ、なぜ「千代田のお城」が世界中の大都市の城に比べて調子つばずれな海つ端にあるのかということは、十分考えてみる価値のある問題だ。
要するに、徳川家康が「新しい城など築いて豊臣秀吉にあらぬ疑いをかけられたくない」と思ったのか、「俺なら、こんなに不便な場所にある城のまわりでも日本一の城下町をつくってみせる」と思つたのか知らないが、太田道濯が築いた江戸城をそのまんま引き継いだわけだ。
この江戸城の場所が、そもそも関東平野全体を支配するための城としてはとんでもなく南東の端に片寄っている。
たとえば、南北朝から戦国時代までの主な合戦の古戦場を見ると、東村山市の久米川の戦い、府中市分倍河原の戦ひとみはらかねいばらい、府中市・小金井市にまたがった人見原・金井原の戦い、いちばん現在の都心に近いところで、江古田・招袋の戦いといったところで、海つ端の江戸城周辺ではなんの戦いも起きていない。
戦争ばっかりじゃない。
一回世紀末には、関東平野の経済力の高まりを感じさせるエピソードが伝わっているが、それは「応安年間(一三六八1七五)に、青山に渋谷長者、芝白金に白金長者が住んでいた」という伝説だ。
「いつの時代にも金持ちが住みたがる場所は変わらないなあ」つてな感慨にふける前に、ちょっと考えていただきたなぜ、関東平野の実質的な支配闘を握った太田道濯は、川堂々と関東平野全体を掌握できるような場所に城を構えずに、不便な隅っこに居城を築いたのだろうか?答えは、太田道濯が江戸城を築いたころは、まだ関東平野の支配圏は握っていなかったからだ。
そのころ、太田道穫は、江戸地方の名族江戸氏の有力な支族だった豊島氏に対する「みな殺しの織滅戦」の真つ最中だった。
そして、豊島氏と、豊島氏の主君筋に当たるが、当時は江戸を追放されて房総半島に拠点を移して田舎豪族に転落しつつあった江戸氏との連携を断つために選ばれたのが、不便きわまる旧江戸氏の居城だった。
ここに拠点を構えれば、当時二三区のほとんどに勢力を張っていた豊島氏と、千葉にこもっていた江戸氏とのあいだを分断できるからだ。
秩父氏、川越氏、豊島氏などと緩やかな氏族連合を形成していた江戸氏は、その中でいちばん若い支族だったらしいが、麹町台地の突端、日比谷入り江を眼下に見下ろす江戸に居城を構えたのが、運のつきはじめだった。
陵運では不便だが、東京湾で手広く海運事業を展開するには絶好の立地だったからだ。
江戸氏は「坂東八か。
の大福長者」などと呼ばれ、源平合戦が始まるころには、秩父氏系の氏族連合の中でもリーダー的な存在に成り上がっていた。
その江戸氏が、結局は源頼朝の平家追討キャンペーンに参戦するのが遅すぎたのと、巨大な経済力を妬まれたのがもとで、江戸にいられなくなって千葉のほうに引っ込んでしまった。
そして、氏族連合の頭を失って統率のとれなく民なった秩父氏系氏族を各個撃破しようとしたのが、上杉家ハの傭兵隊長・太田道濯だった。
だいたい、日本の近世までの戦争は非戦闘員である農民高や都市民は全然殺さないし、敵方の武将でも有能な人間ほ配ど殺さずに取り立てようとするのがふ?っだ。
しかし、太楠田道濯だけは、ヨーロッパの異民族同士のみな殺しの戦いを日本に持ち込んだような残虐、冷酷な掃討戦をやったら東しい。
本家筋の江戸氏は鎌倉幕府ににらまれて、江戸にはいられなくなって歴史の上から消えていったし、その支族の豊島氏などの場合は、新興勢力の太田道濯にた。
(その徹底ぶりは、当時広く武家のあいだで信仰を集めていた熊野神社が)前出の豊島氏の名にちなむ豊島区とその周辺の文京・練馬のコ一区もまた一社もないことになっている(ことにも表れているか。
コ内は引用者注)。
つまり、一族みな殺しにしたばかりか、神社まで根こそぎにしてしまったらしいのだ。
昔から太田道滋というと、なぜか落語の「七重八重、花は咲けども山吹の、実の(蓑)ひとつだになきぞ、悲しき」一点張りで、ほかの話はあんまり出てこなかったのか不思議でしょうがなかったが、これではやっぱりほかの話をしだしたら、陰惨すぎて落語にもしゃれにもならない。
太田道潅としては、豊島氏のみな殺しに成してから、ゆっくりもっと地の利のいいところに城を移すつもりだったのかもしれない。
実際、太田道濯が最初に城を築こうとしたのは、いまの大田区馬込のあたりだったという言い伝えもある。
だが、結局太田道濯は豊島氏磯滅のやり口におうえすぎさだまさそれをなした主君、上杉定正に豊島氏滅亡の九年後に殺されてしまう。
そして、その後は江戸城といえば、当時はすぐ前に東京湾の波が押し寄せていたいまの位置にとどまることとなった。
つまりは、江戸城があんなに関東平野の端っこにあるのは、太田道濯に磯滅された豊島氏の呪いがいまだに解けていないからというわけだ。
そして、江戸城近辺を拠点とした勢力が関東平野を有効に使おうとしたら、これはもう進路を西にとるしかない。
助活〆そして、江戸城がいまの場所に定着してから約二七0年間の江戸時代を通じても、江一戸は明らかに西へ、西へと発展していった。
たとえば、こんな具合だ。
滝沢馬琴の「玄同放言」(文政元年、一八一人)には、「今俗、日本橋以西、四ッ谷、青山、市ヶ谷、北は小石川、本郷をすべて山の手といふ」とあり、また江戸後期の漢学者であり、狂歌に名のあった大田南畝(萄山人、一七四九1一八一二三は、戯号を山手馬鹿人と称したという・お江戸の中心、日本橋から西の話に限って山の手の形成を論じていることに、注意していただきたい。
そして、もうこの時期に山の手というのは、当時華やかな流行の中心おおたなんぼにいた大田荷畝が戯号として自称するほどファッショナブルな土地だった。
それなのに、いまだに「江戸時代は渋谷も青山も草ぼうぼうの田舎だった」というようなことをいう人が多い。
だが、青山については、明治維新以降、墓地ができ、日比谷にあった練兵場が移ってきて、老人と兵隊さんばかりが目立つ街になってからの印象を江戸時代に逆投影してしまっている可能性が高い。
そして、渋谷は、大山信仰の厚かった江戸の町人たちにとってとても重要な大山往還の最初の宿場町だった。
この街のことを、江戸末期から明治維新のころは街自体がほとんど消滅していた池袋といっしょくたにして、まるで場末のように論ずるのはまったく見当はずれだ。
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